昭和61年 5月 | 横浜シーサイドフォーラム設立 事務局を横浜市金沢産業振興センター2階(一社)横浜金沢産業連絡協議会事務所内に置く 1代目代表幹事に林利則〔(株)ジャパンアンダーウォーター〕就任 |
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平成 元年 4月 | 2代目代表幹事に貝道和昭〔横浜港木材倉庫(株)〕就任 |
平成 7年 8月 | 10周年記念で東京ディズニーランド「クラブ33」にて家族会を開催 |
平成10年 4月 | 3代目代表幹事に吉岡璋〔(株)ヨコハマ機工〕就任 |
平成12年 4月 | 4代目代表幹事に坪倉伸明〔(株)坪倉興業〕就任 |
平成17年11月 | 20周年記念でヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル3階「ベイビュー」にてカジノパーティ-を開催・20周年記念誌発行 |
平成24年 4月 | 5代目代表幹事に星正浩 〔(株)星〕就任 |
平成26年10月 | 翌年の30周年記念に向けホームページ開設 |
平成27年 7月 | ホテルニューグランドにて30周年記念式典を開催 |
平成29年 4月 | 6代目代表幹事に池田利志典〔(株)共立紙器製作所〕就任 |
令和2年 4月 | 7代目代表幹事に児玉聖司〔玉家運輸倉庫(株)〕就任 |
歴代代表幹事
林 利則
約30年以上前、この臨海地区には広大な土地だけが広がり建物も、会社も何も無いところでした。
横浜市六大事業のひとつとして、1988年に臨海地区の埋立が完成し、様々な企業がこの地に移転又は新規工場立ち上げをしました。
この前までは雨が降れば湖のような水たまりができ、本当にこんなところでビジネスが生まれるのか?そんな疑念を抱いていたことを思い出します。
そんな中、自分達でビジネスを創出していくという思考に切り替わり始め、運よく同じような志を持った人達と出会い、その数人の有志とこの「横浜シーサイドフォーラム」を立ち上げました。
横浜のこの何もないところから何かを発信したい、地域の為に何かしたいとの強い意志を胸にここまでやってきました。
今ではその思いを受け継ぐ若い経営者たちが、しっかりと横浜シーサイドフォーラムを守り、継続してくれていて頼もしい限りです。
これからもこの地域発展のため、フォーラムも自分達それぞれのビジネスも、お互い高め合い成長していき、地域経済の発展に努めて参りたいと思っています。今後もその役割を担うべく横浜シーサイドフォーラムはあると自負しております。
貝道 和昭
横浜シーサイドフォーラムは昭和61年5月に金沢シーサイド地区に進出した次代を坦う若手経営者の会として設立された。初代代表幹事には林 利則氏(ジャパンアンダーウォーター(株)社長)が就任。3年後、体調を崩され、代表幹事を辞任され、年長の私が2代目指名され、平成10年3月まで務めました。この間、いろいろな事業を行いましたが、平成3年に小出CI普及対策本部長が中心になり{地区名称・CIについて}の募集をし、200点以上の応募がありました。審査の結果
「ヨコハマ シーサイド ピア」に決定
*ヨコハマ ――――― 世界に知られ
*シーサイド ―――― 海に面した
*ピア ――――――― ユートピア(理想郷の意)
CIの決定を始め、中国視察(上海)国内では(北海道ほか)等に行きました。
そのほかいろいろな講師を招いて勉強会の開催。シナーラ号でクルージング等家族をまじえての楽しい行事もしました。また、ソフトボール大会に参加して、会員の健康増進、親睦をはかりました。
吉岡 璋
学生時代の様な友を社会人になって作ることは容易ではありません。
それも企業の経営に関わっている人同志は、なおさらだと思います。
この会はそういう友を作る一助になることも大きな目的です。
その友同志が切磋琢磨し、己の向上に結び付くことを願って会が発足しました。
横浜シーサイドフォーラムとして30年間多くの事業を実績として残してきました。その実行までに幾多の議論を重ねる中で、メンバーの人となりを知り、信頼出来る友を作ることが出来ました。
現在もこの会は継続して事業を実践していますが、私同様メンバー同士が多くの友を作っています。お互いの知恵を出し合い、企業経営に家庭経営に役立て、人生に潤いをもたらすことと思います。
坪倉 伸明
「ピーターの法則」というのがあるらしい。階層社会の構成員は、各自の自分の能力に応じて、それぞれ無能に達する。というものである。
有能な人はそれぞれ、その地位を上り詰めてしまう。という事は、それ以上昇れないという事で、すなわち、その時点で有能ではなくその社会の中では無能ということになるという法則なのである。そこまで偉くならずに、ちょっと手前でいれば、自分のためや、社会のためになるのだろうが、そうは旨くはいかないんだろう。また、意見の合わない者にむきになったり、周りにイエスマン置いたりするのは、無能レベルへの到達感を感じさせないためのものらしい。そして、冗談や,洒落が多くなるのも「終着駅」の症状だそうだ。
この法則に照らし合わせると、私も有能な時期もあったかもしれないが、無能のまま地位にしがみついていた時間の方が長かったかもじれない。少しでも会員や、産業団地のためになったかどうか、今更だが心配になっている。
これからも、今まで私たち先輩が失敗した事を繰りかえさず、明るく、自由に、みんなで、楽しく、少しは誰かのためになるような事、新しい時代に向けて好き勝手にやってほしいと思っている。腹八分目でおさえながら。
星 正浩
平成24年4月から5代目代表幹事として就任いたしました。当時は政権が変わりアベノミクスが打ち出され、東日本大震災被災地の復興と共に日本が大きく動き出したと感じた時期でもありました。
当会は金沢臨海地区の発展と共に歩んで参りましたが、平成27年度で30周年と言う節目の年を迎えます。この機会にと、特にここ2年間は会員拡大にも力を入れ、次の世代を担う30代、40代の多くの経営者の方にもご入会して頂きました。これまでの30年を作ってこられた先輩方の後に続ける様、精進し活動を進めて参りたいと思っております。
会員皆が横浜シーサイドフォーラムと共に成長し、地元に少しでも貢献出来れば素晴らしいと考えております。
池田 利志典
私は代表幹事在任中に横浜シーサイドフォーラムは「学びの場」、「集いの場」、そして「その活動を通じて地域へ貢献できる場」であると言ってまいりましたが、今でもその考えは変わっておりません。もし学生生活に例えるならば本業が学業であり、フォーラムの活動は放課後のクラブ活動のような感覚なのかなと個人的には思います。
それぞれの本業では学べないことや、経験できないこと、そして生涯の友など貴重な事を得られる場だと思っております。
2017年4月からの3年間に大変微力ながら代表幹事を務めさせて頂きました。就任後まず手掛けたのが、会の組織化と分業化でした。それまでの当会は個々の集まりであり、手作り的な会でした。もちろんそれが当会の魅力でもありました。しかし、近年の会員数の増加と活動の多様化に対応できる会の運営、全員で作り上げていく会であるべきと言う事を考えた上でこの改革は必要不可欠と考えました。初めはなかなか上手く機能しないこともあり、絵に描いた餅の様なところもありましたが、会員の皆様のご協力のお陰で徐々に委員会制度(現在は部会制)がスムーズに機能するようになり、新しい執行部に引き継ぐことが出来たと思います。
3年間の在任中を振り返ってみると、自分として出来なかったことだらけで反省することばかりです。特に最後の1年間は金沢LINKAI地区には大きな台風被害があり、そして新型コロナ感染拡大によって後半は十分な会の活動が出来ないままに次期執行部に引き渡すことになり心苦しい気持ちでいっぱいでしたが、代表幹事としてたくさんの事を学ぶことができ、貴重な時間を過ごすことが出来ました。この経験を生かして今後の横浜シーサイドフォーラムの発展と繁栄を精一杯支えて参りたいと思います。